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adf2011-02-01

フェイスブック創始者にして、現CEO、世界で最も若いビリオナー、マーク・ザッカーバーグを主人公とする現在進行形(未完)の物語。

デヴィッド・フィンチャー監督は、それまでの価値観を覆す『現象』を題材とした作品を多く世に送り出している。「セブン」や「ファイト・クラブ」で『現象』を作り出し、「ゾディアック」で過去の『現象』を当時の熱気まで忠実に映画化した。そして本作で現在進行形の『現象』を通して天才(成功者)の栄光と孤独というクラシックなテーマ*1を描くことで、単なるプロジェクトエックス的な学生ベンチャーのサクセスストーリーではない、普遍的なエピックストーリーを創り上げることに成功している。

本作において、登場人物達の内面や心情は描かれず、時には彼らの行動すらもあいまいに表現される。特に、主人公であるマーク・ザッカーバーグ(と彼を演じるジェシー・アイゼンバーグ)は、彼の天才性もあいまって、無表情で感情を表すこともないため、その行動の真意までも明かされることはなく、だからこそ観客は、フラットな視点から物語を追うことを強いられる。観客それぞれが、自らの立場やバックグラウンドによって、『リア充VSギーク』とか『伝統と格式VS新しい価値観』とか『天才VSパンピー』という異なるテーマを本作に見出すのは、必然でありフィンチャー監督の意図どおりなはず。

私が本作に見出したのは、世界を変えうる*2創造物を生み出した天才が、その偉大なる創造物に全てを捧げる物語であり、そこにあるのは制作者の創造物に対するピュアな愛そのものだ。自分をふった女への怒りとアルコールがフェイスマッシュの動機であっても、ザッカーバーグにとってそんなことは重要ではなく、公開から2時間で2万2000アクセスを記録しハーバードの回線をパンクさせた自らの創造物(フェイスマッシュ)の偉大なる成果の方が遥かに重要であることは、後にそのことを誇らしげに語る彼の姿が物語っている。

そんな彼の創造物の中でも最高傑作であるフェイスブックは、ファイナルクラブやボートクラブのような旧来のヒエラルキーの頂点に位置する権威に対する嫉妬と反感や、旧来のヒエラルキー*3そのものを破壊し再構築しようとするアナーキ&パンクな衝動から生み出されたかのように描かれており、実際の動機もそのとおりだったのかもしれないけれど、ザッカーバーグは途中から明らかにフェイスブックの成長そのものに固執し、それ以外の全てのことは彼にとってどうでもいいことのように描かれている。それは、訴訟に対して終始無関心でいい加減な受け答えしかしなかったザッカーバーグが唯一感情を露にしたのが、ウィンクルボス兄弟*4に「できるものなら、フェイスブックを作ってみろ」と反論するシーンであることや、親友のエドゥアルドに対して本気の怒りをぶつける唯一の場面が、エドゥアルドが銀行口座を凍結することでフェイスブック(創造物)を殺しかけた時だけであったことからも明らか*5だ。

だからラストシーンでのザッカーバーグの行動とエンディングソングに込められた『孤独な天才の悲劇』への皮肉なメッセージは、しかし同時に、友人を失い孤独になろうと、世界一若いビリオナーになったことでさえ、今この瞬間も急速に成長を続ける創造物(フェイスブック)へのパッションに比べたらジョークにすぎないということを伝えているような気がした。*6

彼はアスホールになろうとしているわけではなく、自らの創造物の成長をどんなことよりも優先しているだけにすぎないのだ。*7

*1:市民ケーン」や「スカーフェイス」、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に代表される

*2:そして実際に変えてしまった

*3:自分を受け入れない

*4:フェイスブックは自分達のアイディアのパクリだと主張し、フェイスブックの価値を貶めようとした

*5:元カノのエリカとレストランで偶然出会った後、フェイスブックを大きくすることを誓うのも、彼女の気持ちを取り戻せなかったからではなく、彼女がフェイスブックの凄さを理解せず、くだらないものだと蔑んだからだと思う。

*6:この映画を語る上で、ショーン・パーカーの存在は外すことができない。元ポップアイコンのジャスティン・ティンバーレイクが嬉々として演じるこのNapsterの設立者は、強烈な個性で場を支配し、そのパンクな振る舞いと、『立て板に水』を100万倍加速させたような雄弁さで、ザッカーバーグの心を捕らえ、彼をシリコンバレーという名の世界へと誘うメフィストフェレスの役割を担う。ザッカーバーグと彼の創造物にとってはメディスンでもポイズンでもある劇薬であるショーンは、すばらしいポテンシャルを持った創造物を作り出しながらも結果失ってしまった過去に囚われており、それは大学生やインターンの女の子といった『若さ』を過剰に追い求める彼の姿に現れているように思う

*7:あらゆる他者や、自分自身が他者からどう思われるかも気に留めず