Blue Valentine

adf2011-04-30

ある夫婦の始まりと終わりを描いた映画。映画に限らず批評家の多くは、とかく『省略』の美しい作品に高い評価を与えがちであり、その点から言ってもデレク・シアンフランセ監督が10年の歳月をかけて書いた脚本は腐ったトマトでの好評価にも見合う素晴らしいものだ。ただ、夫婦の絆が崩れていく光景と甘い恋の始まりの物語を交互に描く本作は、単に巧みなだけでなく残酷でさえある。

観賞後すぐの感想は「価値観の異なる相手とは恋人関係はうまくいっても夫婦生活は無理っていう身も蓋もない話。」というものだった。若い時は個性的で可能性があるように思えた夫は、単に幼稚で将来を真面目に考えることのできないダメ男で、聖人のようにすごく優しかったのも単に他人にも自分にもあまかっただけであることに気付いてしまっている妻。そもそも若い自分の許容範囲を超える問題に直面して弱っていた彼女が一時的に夫のような男に癒しと助けを求めただけであり、あの時の彼女にとって本当に必要だったのは嫌っていた父親のような強い家長タイプの男に説得されることだったんじゃんないかとさえ思える。

しかし、観賞後しばらく経てから思うのは時間の残酷さこそが本作のテーマではないかということ。映画ではしばしば語られなかったこと、省略された部分にこそ監督が伝えたいことの本質が隠されているはずである。本作では特に現在のパートで全く彼らを取り巻く社会が描かれていないことが重要なんじゃないかと思う。本来、単なるカップルと夫婦を分けるのは社会との関わりであり、夫婦になれば互いの家族や隣人や職場の仲間達との関係性は外すことができない要素となるはずなのに、本作では妻の父と奥さんの職場の限られて人物を除いて誰も主人公夫婦と深く関わっていない。つまり社会を排除することで夫婦の関係性のみにフォーカスしていて、そこで強調されるのは時間の経過がどれほど残酷かだ。

美男美女で可能性に溢れた二人が、寂しい頭髪とビール腹のダサ男と体型の崩れた女になり、彼らに存在したはずの可能性が全て消え去ったかのように見える。主演のライアン・ゴズリングミシェル・ウィリアムズのリアルな役作りは凄まじくて、二人の外見の経年変化はリアルに時間が経過したようにしか見えない。世界で一番ミニスカートとブーツの似合うガールとオシャレひげの個性派イケメンのカップルのキラキラが見えるようなダンスが、数年後にあそこまでもっさりしたものになってしまうのが残酷すぎる。妻が我慢できなくなり、夫が解決できなかった問題はこの時の流れにこそあり、失ってしまった過去の可能性を今からでも取り戻そうともがく妻にとって、夫もまた過去の可能性を失った自分と同じ被害者であり、しかもそれは自分のせいですらあるかもしれないという罪悪感が漂っている。

二人にとって特別なはずの曲でさえも、すれ違う二人の間を表面上だけでも取り繕うために度々使われた結果、特別なものではなくなってしまっていて、どんな努力*1も手遅れであるように見える。だから彼女が下した決断は必然であり、ラストシーンは二人の永遠の別れであると思っていた。しかし『キッズ・アー・オールライト』を観て、考えが少し変わった。ディーンとシンディの二人は何らかの形でまた家族に戻るのではないかと思う。彼らが強くて、夫婦間の問題を乗り越えることができるからではなく、弱いからこそ家族として支え合い共に生きていかなければならない。そしてそれが家族なのだ、多分。

あとシンディ母の作る料理がガチでまずそうでシンディ父が怒るのも無理はないかもって思った。

*1:ラブホテルの未来部屋で酒を飲むっていうプランは、あまりにも程度の低い努力ではあるけれど